カンニング事件と予備校時代 [思い出ネタ]
仙台時代は結構楽しかった。カンニングした子と同じく寮生活だったがロクに予備校に行かないで友達とつるんで街に出て遊んでばかりいた。何せ初めての都会暮らしだったので何もかもが新鮮だったのである。一応寮には禁煙、禁酒をはじめ細かい規則があったが、守る者はあまりいなかった。最初の数ヶ月は寮生たちは結構真面目にやっていたが、血気盛んな若者がつるみ始めたらもはや抑えが利かない。夏以降は狭い個室の中でコンパを始めたり、ストレス解消と称して寮の壁をキックして大穴を開けたり、気に入らない者へ女の子の字でウソのラブレターを出したりなど酷いものだった。まさに旧制高校の寮みたいなノリ。他の寮の者と話すとみんな「お前んとこの寮に入らなくてホントに良かったよ。」とあきれられた。文理には寮がいくつかあったが私が入っていたのは特にタチの悪い者の集う寮だった。この寮には単に交通の便だけを考えて決めたに過ぎなかったのだけれど。私は単純な性格なのでその熱狂の中に巻き込まれそのまま溶け込んでいってしまったが、少なくとも他のみんなは私よりは頭が良く、かげではしっかり勉強していたことに気づいていなかった。そして翌春。そんな疾風怒濤の浪人生活をしていたバカ者に与えられた審判は「不合格」の3文字だけだった。文理での一年はセイシュン時代的にはオモロかったが、人生的には全くの無駄をしてしまった。またしても親不孝を重ねてしまった格好である。私が本格的に勉強を始めたのは二浪目からだ。毎日図書館に通うというスタイルで宅浪をしたのだが、そのことはまた機会があれば書こうと思う。
カンニングした子は山形出身だったらしいが、寮には入らず仙台まで通学には出来なかったのだろうか?寮費より交通費の方が安くつくし、電車の中で勉強に専念できるわけだし。私が仙台にいた年の吹奏楽コンクール東北大会は山形市で開催されたので当然のごとく聴きに行った。(←このドアホが!)仙山線で一時間程度の距離でそれほど遠く感じなかった。寮生活のなんたるかを知る者としては「親元から離れて浪人するのは結構リスキーな事なんだから通えるなら通った方が良かったんじゃないか?」とどうしても思ってしまう。ウチの時代の寮を基準に考えるのも失礼な話かもしれないけど。それでも東北六県の若者が一同に会す寮生活は楽しくも悲しくもあり貴重な経験ではあった。あのころのみんな今どうしてるんだろ?
CX90年代深夜枠最強伝説 [思い出ネタ]
遠くにありて想うもの [思い出ネタ]
いにしえのMac謹賀新年の儀 [思い出ネタ]
独立国家小田川藩帝国炎上す! [思い出ネタ]
独立国家小田川藩帝国(後編) [思い出ネタ]
我々日本人に開放されているのはこの国会議事堂である。私は一応温泉ブロガーという体裁でこの国を訪問したので、ここの温泉については触れなければならない。
国会議事堂玄関。どう考えても独裁国家にしか見えない小田川藩だが一応民主国家の体裁は繕っているらしい。幕藩体制下の藩なのかはてまた独立国家なのかコンセプトがよく分からなくなって来た。
なんと黄金の茶室もあるそうな。茶室の名前がチャングムというのは何かのシャレか悪質な皮肉だろうか?だって秀吉は朝鮮出兵をしたんでしょ?「茶室だからチャングム」といった風なあまり考えずに付けたネーミングなんだろうけどさw
観光客用の温泉はいたってノーマルである。というか施設の規模を考えるとあまりに竜頭蛇尾。お湯は笹ニゴリでやや熱め。しょっぱ味。ほぼ無臭。さらっとした浴感。鉄分を含有しているらしくあったまり感が持続する。おせじ抜きで良いお湯だ。五所川原以北の岩木川東岸では一番の泉質。わざわざこんなハリボテ、もといテーマパーク、もとい独立国家にしなくても良いレヴェルである。
露天風呂にお湯が張ってあるのを見たことがない。もしかして藩主さんセコイ?
ちなみにこのエリアの近くの飯詰という場所には戦後最大の偽書「東日流外三郡誌」で知られる和田家の跡地がある。津軽人のホラ気質には地元の私ですら面食らう。ネタ的には面白いんだけどねw
独立国家小田川藩帝国(前編) [思い出ネタ]
小田川藩国境付近の上空。奇妙に輪っかになった飛行機雲があるのがお分かりだろうか?おそらく米軍の戦闘機が小田川藩周辺を調査するために上空を旋回しているのだと思う。
小田川城正門。ここから先は日本国憲法が一切通用しなくなるから注意が必要だ。道路標識もごらんのように日本国のものではなくなる。
坂をやや登ったところに小田川城の大手門に当たるゲートがある。ゲート上部には「小田川藩帝国」「ODAGAWA INDEPENDENCE」との標記があり、ここが独立国家であることが実感出来る。
ゲートをくぐるといきなり現れる帝国海軍省。「何ぃ!パトリオットミサイル防御システムだと?!」
小田川城の天守閣方向を望む。天守閣そのものはこじんまりとしており、田舎館村役場の天守閣の方が立派である。
さらに進むと国防省の施設が見えて来る。掘ったて小屋のようだが「ミサイル基地」との表記。
小田川藩ICBMの偉容。日本海方面にミサイルが向けられているのはまだ良いが、良く見ると東京方面にも向けられている!油断ならない。北朝鮮だけではなく、わが日本国も小田川藩国の標的にされているのだ。
独立国家小田川藩帝国(後編)につづく。
吹奏楽コンクール全国大会があったんですね [思い出ネタ]
スタミナ太郎弘前店に入ってみる [思い出ネタ]
7月に弘前市扇町にオープンした「スタミナ太郎」。バイキング形式の焼肉店に入るのは6〜7年ぶりだ。この手の店が美味しいはずはないのだが、ある特殊なノスタルジーに浸るため利用してみた。私がまだ熊谷市民だったころ良く通っていたのが「肉のハナマサ」である。私のようにビンボーでケチなくせに腹一杯になりたい人間には「ハナマサ」がピッタリだった。仕事でストレスがたまると私はよくチャリンコで「ハナマサ」に通い、肉の味のするゴム、いや、ゴムのような固い肉を喰らっていた。そもそも私は若い頃は暴飲暴食の王の名を欲しいままにしていた。ご飯は一膳20秒程度で平らげてたし、和風レストランに独りで入って寄せ鍋を頼んだりもしていた。今じゃ高血圧症でメタボっ腹なのでそのようなことは控えている。それでも時々自分の立ち位置を確認するために、過去の愚行を繰り返したくなるのである。 「スタミナ太郎」では、紳士然と年相応の量とペースで食事をした。そして「ハナマサ」のゴム、いや、肉と同じ安っぽい味わいに熊谷人であった当時を懐かしく回想した。 「スタミナ太郎」には休日にランチサービスがなく、昼間からフルバイキング価格1980円を払う。はっきり言ってこれだけ払うならもっと美味しい店で食事が出来る。んでもまあ、美味しい思いをするのが目的じゃなかったですので。
注) 「スタミナ太郎」の名誉のため言っとくが、肉はハナマサレベルだが、他の料理やデザートは結構美味しかった。肉以外のメニューを目的にここに来る人がいるというのもうなづける。お寿司にウニがあるのも結構ウレシイ。私のような独り客も邪見にはされなかった。
私のRCサクセション [思い出ネタ]
お小遣いの少なかった私はRCに限らずレコードを購入するゆとりなどなかったのだが、中学2年の時ひょんなことで、その機会を得た。場所は修学旅行中の都内某所である。修学旅行の自由行動の日に私は川口の伯母と会う約束をしていた。幼少のころは何度も親戚の家に遊びに行ったものだったが、ある程度成長してからは親戚とは疎遠になっていた。
なので、子供の頃は可愛がってもらっていたくせに、人見知りするようにはにかんでしまって、何を話せば良いのか分らなかった。そんな私の様子を察してか「何でも好きなもの買ってあげるから言って見なさい。」と叔母さんが切り出してくれた。「実はレコード屋に行きたいんだけど。。。」田舎坊主の私は少々屈辱を感じたが、子供のように人に甘えられる機会はもうないだろうと、叔母さんに案内してもらった。「俺が今欲しいものはと。。。」と熟考し、ハムレットのように悩んだが、結局私の手には2つのミュージックテープが残った。(なんでLPでなくテープにしたかは謎である。荷物になると思ったからかな?)
ひとつは、ブラスロックバンド「スペクトラム」のベストアルバム。これは私が吹奏楽小僧だった関係である。私が中2のころには既に解散していたが、いっこ上の熱心なスペクトラムヲタの先輩の影響でじっくり聴いてみたくなっていたのだ。その時までスペクトラムの楽曲と言ったらインザスペースしか知らなかったし、桑田啓介がヴォーカルで参加していることも知らなかった。今ひとつがRCサクセションである。とにかく何でもいいからと思ってロクに内容を確かめず「これがいいな。」と伯母さんにレジを頼んだ。ほんとはもっとちゃんと選びたかったが、二つも手にしている時点でずうずうしく思ったので遠慮した。自分へのお土産を得た私はこの2つのテープを聴くことを非常に楽しみにしていた。
家に着いて早速RCのテープを聴いてみたが、なんだか違和感を感じた。全然ロックしてない。まるでコミックバンドみたいだし、曲も古くさい。「アレ?RCってこんなバンドだったっけ?」そう。私はRCがフォークバンドから出発したことを知らなかったのだ。「俺はフォークグループのファンになるつもりはないんだが。。。」と喰わず嫌いをしそうになったが、繰り返して聴くうちにだんだん引き込まれ、ロックに路線変更した以降のRCの音楽よりずっと好きになった。かえってRCの「愛し合ってるかい?」とか「Mmm...Baby!」とかいう要素は受け付けない体になった。そのテープのタイトルは「ハードフォークサクセション」というものだった。つまり私にとってRCの音楽とは初期RCのことであり、化粧をしているキヨシローではなくマッシュルームカットのキヨシローなのである。
忌野清志郎氏の逝去をきっかけに以上のようなことを思い出し、私のiPodにRCのプレイリストを作ってみた。(思えばRCとは25年ぶりの邂逅となる。)その結果、「トランジスタラジオ」「雨あがりの夜空に」「サマーツアー」「ベイビー!逃げるんだ。」などといった私の思春期にリアルタイムで流行っていた楽曲を一切含まないリストになった。今車の中で聴いているのは「ぼくの好きな先生」「三番目に好きなもの」「僕の自転車の後ろに乗りなよ」「キミかわいいね」などといった初期のRC、および、矢野顕子とのデュオの「ひとつだけ」、坂本冬美と細野晴臣とのトリオHISの「夜空の誓い」などの曲である。修学旅行の時伯母さんに買ってもらったテープはまだ私の部屋のどこかにあるはずだ。実は昨日この思い出のテープを探す気になって部屋の隅っこにうずたかく積んである段ボールの発掘調査を行ったが、あまりにも他の雑テープや雑ビデオが膨大であり発見出来なかった。RCは見つからなかったが、長年忘れていた高校や大学時代の吹奏楽部時代の演奏テープなぞを発見し、つい懐かしさに浸り、そのうち飽きてめんどくさくなり発掘を断念した。私はこういったものを一切捨てられないのである。
「離れている時でも おいらのこと 忘れないでいてほしい ねえ お願い BYキヨシロー」BYE!